《本日のフリーダムメッセージ》

~腹トーク 覚醒における人間のエグい話 1〜

 

本日は、腹トーク。
腹トークってのは何かって言うと
わたしが、昨今、腹の底から思ってることを
そのまんま、ぶっちゃけてくというもの。

時々気まぐれに勃発する
王様の耳はロバの耳的な企画。

でもってこれってどうなのよ?ってのを
バッサリぶった切っていきます。

注)本日の話は人間のエグい部分に
触れる話が、かなり混ざります。

本質的なヒーリングLOVINGに出会ってから
ずっと疑問だったことがあります。

それは、何でこんなに素晴らしいものが
そんなにまだ大流行していないんだろう
という疑問です。

こんなにも本質的に変容するものがあるのに
何故だろうというのがとっても不思議でした。

段々、何故そこまで流行らないのか
研究するうちに謎が解けてきました。

1つ目の理由からお話していきますが
いきなり核心的なエグさに触れちゃいます。

先ず、第1の理由としては
1番になれないので、同じ土俵に立つのを辞めるからです。

サイキック能力というのは
天性の才能的に能力が
最初から開いている人も沢山います。

わたしは後天的に開いた人間ですが
多くの場合は、生まれた時から
ある程度覚醒して生まれてきているなど
先天性の能力がある方が多いのです。

後天的に開こうという人が
先天性の人を目の前にする。
それは、一体、どういうことかというと。

オリンピック選手を目の前にして
凄いなあと言っている小学生の気分
なわけです。

つまりさ。
サイキック能力を後天的に開花しようとした時に
まず訪れる第一関門的な要素としては

一生、先天性的に開いている
サイキック能力者に勝てない。
能力的に未熟であるということを
受け容れることから
始まるということなんだ。

それを受け容れられない人は
試合放棄。

試合放棄した人はどういう道に進むかというと。

サイキック能力者と自分は違うというカテゴライズ分けをして、自分を正当化するためにサイキック能力者を徹底的に否定する。

ということをして生きます。

問題をすり替えるのです。

サイキック能力者と非サイキック能力者が
存在するわけじゃないんだけれどね。

サイキック能力者というのが
目の前に現れたのなら
それは自分の可能性
でしかないんだけれどね。

分離の意識が強いと
そういうカテゴライズ分けにして
自分の才能や可能性を否定して
自分を正当化して生き続ける
ということしかしません。

1番になれない
同じ土俵に立つのを辞めるというところで
引っかかる人は競争意識が強い人。

つまり、根底的にとても
特別意識を欲している
自信がない人が陥りやすいです。

その人は、要するに
覚醒したかったわけじゃないんだよね。
能力が開きたかったわけでもない。
能力を得て皆を抜いて1番になりたかったのさ。

何か能力得たら特別になれるとでも
勘違いしたんじゃないかな。

1番になりたいのに
それが出来なさそうだから
身を引いたんだよね。

だから、違う分野に
転じるのです。

一生、先天性的に開いている
サイキック能力者に勝てない。
能力的に未熟であるということを
受け容れることをした結果

継続的に覚醒に取り組むことが出来て
能力を開花し続けることが出来るのです。

サイキック能力は自転車に乗るのと変わりません。
気がついたら、結構できるようになります。
競うなら誰かと競うのではなくて自分と競う。
プライドを捨てて、継続する。ただ、それだけ。

自転車乗る時だって
皆そうだったよね。

補助輪外して
いっぱい転んで
自分よりも年下の子の方が
先に乗れるようになってても
自分が乗れなきゃ
単にやっぱり乗れないってことが
起こり続けるだけで。

自転車が乗りたければ
誰かみたいには美しく乗れなかったとしても
乗る練習していかなくちゃ
自分が乗れるようにはならない。

誰のためでもない。
これからの時代
自分でハイヤーセルフの声聞けなかったら
困るのは自分なんだから。

幾世に渡って魔女狩りで
狩られてきた身としては
自分が自分の未熟さを見たくなかったり
自分が自分の能力を認めたくなかったり
自分が自分の能力を開くのを恐れてたりという理由で

サイキック能力者と非サイキック能力者
というカテゴライズを身勝手につくり
サイキック脳力者を迫害するのは
もう辞めて欲しいなと思いますね。

私は、今世などは
そこの問題も解決するべく
非サイキック能力者に寄り添えるように
非サイキック能力者上がりの身から
努力して能力開花するということを行っていますが

この問題は極めてディープだと思っています。

例えば、これからどんどん能力者が増えていきます。
私のような人間がどんどん個々の能力を開いていくから
人数が増えてきます。

そうすると、ある程度のテレパシーや
チャネリングが使えるのが
その人たちの中では、当たり前になるんだよね。

そういう世界は、夢物語でも何でもなく
リアルに目前です。
何故なら一部の世界では
すでにそれが起こってるから。

私の周りなんか、ぶっちゃけ
みんなチャネリング、テレパシー使えるのが
スタンダード、通常になってきてるからね。

そうすると、能力者は、そこで通じるわけです。
でも、非能力者は、そこで通じないわけです。

だから、伝え続けなくちゃならない。
今現時点で、能力が全くなかったとしても
開くツールがあると。

開きたいなら
開くことが出来ると。

それと共に
競争意識を
終わらせていかなくてはなりません。

どちらが正しい間違っているという世界を
抜け出していかなくてはなりません。

非サイキック能力者が
能力者に対して
『能力者は非サイキック能力者を見下している』
と見えたなら、それがその人にとっての真実。

自分のフィルターごしにしか
物事は判断できないけれど
テレパシーが使える同士だったり
高次元的に開いているもの同士だったり
波動が合うもの同士だったり
覚醒している同士だったりすると
普通にテレパシーつかえるので
会話とか楽だし、一緒にいて
楽ということは起こります。

それは、優劣とは
全く無関係に起こってるんだけど
そういう風にしか見たくない人も
中にはいるんだろうね。

どんな生き方も正解だと思うけど
私は地球と一緒に行く。

そして、これからの地球で生きるためには
これからの地球に沿った人間に
なっていくことが必要なのだと思っています。

だからさ。
誰かを出し抜いて一番になれないからとか
既に凄くサイキック能力が開いている人には
到底かなわないっていう
薄っぺらいプライドなんか
さっさと捨てちゃって
自分自身の先頭に立っちゃえよ。

泣きたくなるくらいに
未熟だったなら
それが事実なんだから
そこから目を背けるなよ。

言い訳が見つからないくらい出来ないなら
それが事実なんだから
そこから目を背けるなよ。

自分を超えるには
そこから目を背けては
何も始まらない。

オリジナルを過度に欲しがるのは
オリジナルが無いからだ。

サイキック能力を開花していくことと
オリジナルの探求というのは
全く別物なんだよ。

オリジナルの探求という言葉は
時に自分の能力開花からの逃げに
なっていることがあると知ること。

オリジナルってのはさ。
生き様そのものだから
個性的な人間ってのは
何してたってオリジナルなんだよ。

オリジナルが無いってのは
本当の自分を知らないから。

本当の自分を知らないから
サイキック能力も否定する。
とても愚かだ。

目の前に観えるもの。
それは、自分なのに。

自分自身の先頭に立つこと。
自分自身を超えていくこと。
競う相手は何時も一番身近にいる。

自分を超える行為。
これが最も過酷であり
これが最も神秘的で奇跡に満ちている。

自分を超える行為。
それは覚醒と呼ばれることもある。