《夜エッセイ  苦に楽が 楽に苦が》

 

いつもあるもの。
それを消すことは出来ません。

人間であることを受け入れられない時
人間は苦しむのです。

例えば、自分が何がしたいのか。
どんなことがしたいのか。
それが見つからない時というのは
自分という人間は一体
何がしたいのだろうと葛藤しますが

ある意味、その葛藤には楽も含まれているのです。
なぜなら、探せるというゆとりがあるから。

探していられる。ということ自体が
とてもゆとりのある行為です。

日本は豊かな国なので
そういったゆとりも多いですが
海外の豊かではない国々では
与えられた目の前の仕事を
ただ、ひたすらに行うしかない
そんな境遇も沢山あります。

選べるということ自体が
どれほどの自由の元に成り立っているか
想像もつかないほどです。

自由だから悩める。
選択肢があるから、何がしたいのか探求できる。
何がしたいのかがわからないという悩みは
そうした自由という贅沢の上に成り立っているのです。

でも、何がしたいのかがわからない
真っ只中にいる人は、とてもそうとは思えず
自分の悩みはとても深いものだと感じると思います。

何がしたいかが、わかったら
探すことが終わります。
探すことが終わってしまうと
後に残るのは、それを成していくことだけです。

探している時は、成さなくて良いですし
わからないので、出来ないという理由がありますが
わかってしまったのに、成さないとなると
理由が生まれませんから、成すことに
必然的に、チャレンジしていくことになります。

実際に成すフェーズに入ると
わからない、探している段階の自分には
いかにゆとりというものが存在したのか
ということがわかります。

また、承認欲求が強く、競争意識が強い時
というのは、それはそれで苦しい心境ですが
ある意味、その独特の楽しみが存在します。

例えば、誰かよりも優れていると感じることに
すごく興奮を感じたり、優越感を感じられますから
誰かよりも上(と感じられる状態)になっておけば
私って凄いでしょう!というあらゆる行動に
良い気分が得られるわけです。

そのため、承認欲求が強い時というのは
とても単純で、簡単に
高揚感という良い気分が得られます。

覚醒していって、満たされてくると
承認欲求で動けなくなります。
そうすると、高揚感自体が、喪失していきます。

承認欲求が強い人は
色々なことを成し遂げている人を見ると
すごくうらやましいものです。

成功者の中でも、承認欲求が未だ強い人であれば
いいでしょう!と自慢してくれるけれど
満たされてしまった人は
そんなに何故羨ましがられるか
よくわからないとなります。

そうした意味では
得るまでは、得るとどれほど凄い気分になれるだろうか。
と期待していたとしても

実際に、本当に得て、更には満たされてしまったら
それは、そんなに特別なものでは無くなってしまいますから
高揚感は得られないものです。

想像とは違って高揚感は得られませんが
クリエイションを望んで、自分で成し遂げた時は
かつての自分が望んだ世界が、今目の前に広がっている
そのことに、感謝を覚えます。

いつかの自分の望みが今、目の前にある。
それを感じる度に、感謝が沸き起こるのです。

当たり前の中に、誠に奇跡を感じるのは
2つあると私は思っています。

1つ目は、今という当たり前を失った時。
2つ目は、自分が望んだ世界が目の前にある時。

1つ目は、能動的に世界と関わらずとも
感じることができる、訪れる奇跡。

2つ目は、能動的に世界と関わることで
はじめて感じることができる奇跡。

そして、過去にあった奇跡ではなく
奇跡を『今』感じられるのは
2つ目の関わり方なのです。