《 本日のフリーダムショートメッセージ 世界との対話 》

 

 

昨日のような記事を書くと

書いた後で『ああ、ちょっと手厳しかったかなあ』

と思ったりすることがあります。

 

 

セッションや講習で

よく『Ayaさんって、物凄くビシッと詰めますよね』

と言われますが、その瞬間はビシッとしていたとしても

後から『ああ、ちょっと流石に手厳しかったかなあ』

という思いが、ちらっと過ることはあります。

しかし、後悔することは全くありません。

 

 

優しく、皆んなをフォローしたり

大丈夫だよというような記事ばかり書いていたら

癒されました。心が楽になりました。

と言われるのでしょうし、嫌われません。

そういう優し目の記事だけを

意図して書こうと思ったら書けます。

 

 

じゃあ、何でやらないのかというと

本当に誰かのためを思って何かを伝えるというのは

他の誰かにとっては厳しいと感じるようなことも

含まれていることもあるからです。

 

 

わたしにとっての優しさとは

《 真心を持って、その人に触れること 》です。

 

 

不器用だなあと自分でもつくづく思います。

本当に不器用で、どうにもなりません。

変化球が投げられず直球勝負しか出来ません。

 

 

例えば、昨日などは、ライトワーカーとして

活動し始めようとしている方だったり

活動して間もないライトワーカーの卵の方たちに

向けて書いた記事です。

 

 

どうして、厳しめに書いたかというと

世界が益々

『世界を愛を広げているベクトル』なのか

『愛を欲しがっているベクトル』なのか

この両方のベクトルエネルギーで

物事の全てが動くようになっています。

 

 

小手先は通用しない。

『愛を欲しがっているベクトル』

つまり、幻想の方のベクトルは

霞のように消えて無くなります。

 

 

実態があるのは愛だけ。

そうなった時には、守ることじゃなくて

腹を割って、自分の本音を出して

世界と対話していくしかない。

 

 

自分の脆さも危うさも愚かさも醜さも弱さも

そういうところも、すべて出していくことが

今まで以上に求められているのです。

 

 

そうした自分の闇さえ抱きかかえた時には

自分自身という存在そのものであり

それだからこそ、成せることがある。

そうした自分だから、出来ることがある。

ということがわかってきます。

 

 

自らの闇は、ただ自分の一人のものとして

見ているうちは、闇にしかなりません。

 

 

脆さも危うさも愚かさも醜さも弱さも

一つ一つ、抱きかかえていった時には

他の誰かのその部分も同じように

愛することが出来るのです。

 

 

そうした時には、自分の弱さや愚かささえ

愛に値するようになるのです。

 

 

愚かなあなたを恐れないで。

 

 

世界中で最も多くの人を許すことが出来るのは

最も愚かな人である。

愚かでありながら、最も慈悲深い人である。

慈悲深さはそのうち、許しとなり、愛に変わる。