《本日のフリーダムメッセージ 劣等感を超えた先に》 

 

劣等感。

 

自分は劣っている

皆んなよりも劣っている

という感情。

 

よくよく、考えてみれば、不思議なものです。

誰かよりも出来ないことがあって

誰かよりも劣っていることがあるのは、当たり前。

 

そこには、同時に、誰かよりも出来ることもあって

誰かよりも優れていることもあるのも、当たり前。

 

劣っていることは、場面が違えば

優れていることに活かせることもあるし

 

優れていることだって、受け止め方が違えば

劣っていることのように思えることもあります。

 

こうした、事実があるのにも関わらず

劣等感で悩まれる人には

共通している思考パターンがあります。

 

それは、誰かよりも劣ることが無くなるという幻想。

 

はっきり言うと

 

誰かよりも劣っている場面が起こることは無くなりません。

誰かよりも出来ない場面が起こることは無くなりません。

 

一つであったものが

バラバラに分かたれた。

孤独の代償に個性を得て

『自分』という個である存在のときには

誰もが、突出しているところと

欠けている部分が存在します。

 

それは、個である限り変えられないことです。

ですから、誰かよりも劣る部分がある事実は

変わらず、存在しますが

劣等感自体は消えうせます。

 

つまり、実際に劣っていることと

劣等感は別に存在しているのですね。

 

劣等感(と優越感)から完全に逸脱している場合

誰かよりも出来なくて、劣っている事実を見たときに

自分も、出来るようにするか、自分自身とかけ離れていて

無理そうなこと(やりたくないこと)であれば

そこは、私の立ち位置では無い。という風に見ます。

 

そうして、劣っていることを見つける度に

立ち位置を確定していくのです。

 

もっと言うと

劣等感(と優越感)から完全に逸脱している場合の

思考パターンというのは、『こんな風にあの人よりも劣っている』

という事実だけを捉えて、同時に『それであれば、自分はこういうところが得意で優れているに違いない。それが自分の立ち位置だ。そこをもっと極めて行こう』という風に、切り替えをしているのです。

 

世界にとっての自分の立ち位置を極めていて

競争から逸脱していて

優越感と劣等感を超越している人というのは

自分以外の立ち位置も、役割以外には

興味を示さず、全部取ろうとしていないんです。

そして、部分、部分で事実として発生する

劣っているところ、優れているところ。

それを、シンプルに受け止めています。

 

逆に言うと、劣等感に陥っていて

世界における自分の立ち位置に立っていない人は

自分以外の立ち位置も、役割も

どの場所も、全部取ろうとしています。

そして、劣っているところがある=自分という存在が全部ダメ

という風に、劣っているところがあることと、存在自体の肯定感の

無さをくっつけて、一色単にして感じているのです。

 

本来、優劣というのは

自分という人間は自分だけ。

それが、各々全員に存在している。

 

自分には出来ないことは。

かっこいい。凄いなあと感心する。

素晴らしいなあと賛美するためにあります。

 

全部取ろうとするのを辞めましょう。

全員、持っているものと持っていないものがあります。

誰かの方がすごく持っているように見えますが

それは、幻想に過ぎません。

全部は絶対に取れません。

 

何かに秀でているということは

劣っていないと起こらないんです。

 

場所争いしなくても、あなたの場所は

ちゃんと、一つ分、あるんです。

 

劣等感から、力を誇示するということが起こります。

存在の否定から、外で過剰に認められようとする行為が発生します。

 

もう、いいんだよ。

最初から、ずっとあった、あなたの場所。

そこには、皆んながあなたに見て、羨ましがるような

キラキラな光だけじゃなくて

その場所だから、その立ち位置だから発生する

悩みも、情けなさも、ちっぽけさも感じるけれど。

 

それでも、その場所に立ってみた時には

劣っているところがある事実さえ、愛しさに変わる。

劣って出来ないことは、世界から愛されて

助けられる場所に変わる。

 

王さまも、お姫様も、武将も、魔法使いも

賢者も、アーティストも。

 

極めれば極めるほどに

劣って出来ないことも際立っていくだけ。

 

わかればわかるほど

わからなくなるだけ。

 

あなたを生きることが、答えなんだ。

あなたは、あなたの場所に、立っていますか?