<本日のフリーダムメッセージ  理解という落とし穴>

 

共感するということを

心地良く感じる人がいます。

 

共感されることを

心地よく感じる人もいます。

 

わかってもらえない

という哀しみを抱えていて

わかってもらおうとして

躍起になっている人は

世の中にとても多いです。

 

そういった意味では

心のお仕事をしている方は

共感、共鳴することで

他者に癒しを与える人も

いらっしゃると思います。

 

私と言えば、どちらかというと

わからないという立ち位置に立つことが多いです。

 

と言いますのも、様々な家庭の複雑な事情や

苦しみや悩みなど、実際に体験した当事者でもないのに

到底わかるはずもないと思っているところがあるので

下手に、解ったふり、理解したふりに立つことは

一切、行っていません。

 

ところが、『私には、到底、あなたの苦しみがわかりません』

と言えば言うほど、相手の方は自然に癒されていくのです。

 

いつも、真実が人を癒す。

 

人間が、自分という人間のフィルターを通して

理解という名の憶測を当てはめてみたところで

本当に本人になっていないとわからないことは

沢山あると思います。

 

私にはわからない。

でも、傷に触れた痛みを一緒に感じることはできる。

 

孤独に触れれば、氷のような冷たさ。

傷ついた心に触れれば、激しく飛び跳ねるような痛み。

 

本当に壮絶な数々の痛みに触れてきたけれど

到底、やはり、私には簡単にわかるなどとは

言えないことばかりです。

 

自分にとっては、大したことがないからといって

誰かの痛みを大したことないなどと

どうして言えるでしょうか。

 

理解をしたふりをすることは

時にジャッジになり

更に相手を傷つけることになります。

 

わかったふりなんて

誰も求めていないんだよ。

 

求めているのは、理解を超えた愛。

愛だけが、その人に寄り添うことが

出来るのだと思うのです。