《本日のフリーダムメッセージ》

~見捨てられない〜

 

誰かを見捨てる。

見捨てるというこの言葉に
冷酷さや残酷さといった
ネガティブな感覚を感じたならば

今日、これからお話することは
そういったネガティブさに
一筋の風を入れることになるかもしれません。

そもそも、見捨てるという言葉は
どうして、生まれるかというと

『見捨てられた側』が居て
『見捨てる側』が居て
はじめて、成立します。

見捨てるということ自体
理由もなく
好んで行う人は、先ず居ません。

問題となってくるのは
一緒に居ることが
今の自分にとっては負担であったり

関わることで、自分が
嫌な思いをしたり

関わることで、自分が
疲れてしまったり

喜びとは、遠い場合

自分の幸せを貫く為に
見捨てられるか

という時に
見捨てられない

ということです。

例えば
離婚したいのだけれど
離婚出来ないとか

親元を離れたいのだけれど
離れられないとか

社会的な交友関係でも
好きでもない人と
一緒に居ようとするとか

会社の人と合わないのだけれど
会社に留まろうとするとか

そういう行動の先に
見捨てられない
ということが裏に潜んでいるのです。

見捨てられないという思いが
裏に潜んでいるということは

先ほどもお伝えしたように
見捨てられるという行為は

『見捨てられた側』が居て
『見捨てる側』が居て
はじめて、成立します。

そうすると、見捨てられない
ということが発生するということは
見捨てられる側が居るということですね。

これを辿って行くと
自分の幸せではないのに
見捨てられない場合

見捨てられたくない
という恐れも同時に存在しているということです。

もしくは、今世や過去生で
見捨てられたことを
酷いと思っていたり、憎んでいたり
することもあります。

だから、見捨てられないのです。

ですから、なぜ変わらないのだろうと
見捨てる側の立ち位置から
取り組んでいても、何も変わりません。

見捨てられる側での
自分の孤独さといったところと
向き合うことが必要なのです。

『見捨てられた』という被害者意識や
『孤独』という概念自体に
取り組んでいくことになります。

マインドレベルでは解決する問題ではありません。
エネルギー的な変容を伴いながら
受容で留まらず、統合していくことが大事です。

憎んだり
責めたりしている時は
許していったり
受けとめていったりという段階は
とても有効ですが

受容では不完全である
ということを知る事です。

受容は、何かがあった。
ということを受けとめている状態。

受容から統合に至ると
全ては愛
ゼロポイント
ニュートラルになります。

そうすると
受容する必要すら無くなります。

今回の場合でいうと
見捨てられた人 見捨てられない人

というところから

『見捨てられた』
『見捨てる』ということ自体が消滅します。

それは、自分が見捨てられたとか
見捨ててしまった(と思っている)
こと自体が終わるということです。

常に、宇宙は同時創造。
自己責任で創造している
立ち位置に立った時には
加害者も被害者も存在しないのです。