《本日のフリーダムメッセージ》

~2016 秋分 タブー解禁 2、闇の享受〜

 

秋分前につき
ディープモード発動中。

前回の記事はこちら⇨ 1、序章

さて、しっかり、予告もしたし♡

本日は闇の享受ということで
世の中のヒーラーさんや
カウンセラーさんセラピストさんの一部が
絶望してしまう要素を含んだ記事を書いていきます。

すべては同時創造。

これはさ、このブログを読んでる人なら
みんな知ってるよね。

すべての願いは叶えあっている。
それが、この世界なのです。

助けられる側がいて、助ける側が生まれる。
助ける側がいて、助けられる側が生まれる。

1つ例を出してみると

病気というのが、現代増えていますよね。
医者とか薬も増えている。

これは、逆だとも言えるわけです。

医者をやろうとするから、病人が増える。
薬がいっぱいあるから、病人が増える。

薬はお金になるからね。
でもさ、薬がいっぱい売れるためには
病人が必要になるじゃない。

そして、病人を生むためには
不健康になるような食事が必要ですよね。

世界の一部は、こうした大掛かりな
食物連鎖的につくられているのです。

そして、その食物連鎖は
やはり、同時創造という叶えあい
なんだよね。

依存したい人間がいる。
何も考えないで、自分という意志を失って
自分を失って。

自分の意志で動かないというのは
責任を取らなくていいから
ある意味、楽なのです。

だから、そこに甘んじて
洗脳されていく。

洗脳だって、洗脳する側の人間を
バッシングしたって仕方ない。

洗脳される人間がいなくなれば
洗脳ということ自体が消滅するんだよ。

こうした情報は
インターネットが普及して
情報の格差が無くなってきているから
知らなかったということでは
済まされなくなってる。

知る気になれば
いくらでも知れるんだから。

そこから、どういう行動
アクションを起こしていくかは
自分次第ということなのです。

お医者さんの中で
患者さんを治してやってるすごい私。
というところで自己陶酔してるのではなく

すべては、同時創造である。
というところから
目の前の人の病ということ自体も
すべてを丸ごと抱きかかえて
それでいて、その仕事をやってるって人。

一体、どれくらい、いるかな。

医者で誰かを治すってことは
同時に、その誰かの病を産んでるってことだ。

ということを受けとめている人
どれくらい、いるかな。

治してやってる。というのは
全部分離意識の特別感や、承認欲求や陶酔を
得たいために過ぎないんだよ。

さて、これは
体のお医者さんだけに
限ったことではありません。

ヒーラー、セラピスト、カウンセラー。

これらの職業の人も同じです。

フリーダムディスティニーの看板メニューの一つ。
ライトワーカー育成プログラムでは
まず、この同時創造性というところを
享受していくところに取り組んでいきます。

ヒーラー、セラピスト、カウンセラー。

自分が光を表すってことは
闇を同時に産んでるってこと。

自己陶酔のレベルでは
ライトワーカーとは呼べない。
というのが、わたしのポリシー。

癒すということは傷を産んでるし
希望であるということを体現するというのは
絶望を同時に生み出してるということ。

でも、まあ、こういった仕事を
お金儲けということだけじゃなくて
真摯に向き合って人と接していたら
その同時創造性ということには
遅かれ早かれ、いつかは気がつくんじゃないかな。

この仕事をしている同業者が
その同時創造性というところを
受けとめきれずに
ヒーラーやセラピストを辞めていくというのは
よくある光景だったからね。

もしくは、『なるべく中立的な助けないような』
ことをしようとしたり、自然の中で暮らし始めたり
まあ、いろいろ。

そうして、辞めていった人たちや
中立的な立ち位置を取ろうとする人たち。
それはそれで、自分の人生を生きられて
いるのだと思います。

どんな人生を選ぶか。
それは、自分次第だからね。

さて、その同時創造性というところを
考慮して自分を生きる際に
もう一つ忘れちゃいけないことがあります。

それは
何をやっても、結局プラスもマイナスもなく同じで
光であるためには闇を生み出すってのもわかっていて
それでいて、その上で、世界においての自分ってのは
何者なんだ。ということ。

わたしが、この問題に差し掛かった時
確か、7、8年くらい前だったかな。
ものすごく葛藤しました。

希望であるということは
絶望を生み出してる。

過去生含めて
絶大な絶望の経験をしてきているわたしは
同じものを生み出してしまうということを
受けとめきれずに、苦しくなって
投げ出そうとしました。

だから、ヒーラーとかライトワーカーとか
そういう極ではなく
もっと中立的な立場。

芸術的要素が好きなので
真理を含んだ
絵本を描いて生きていこうとか
作曲が好きなので曲をつくっていこうと
思ったこともあります。

でも、そこで
本当にそれでいいの?

という気持ちが湧いてくる。

世界がどうなっちゃうとか
そんな他者目線の心配とかいう理由じゃない。

数々の闇と絶望を体験してきたわたし
今世でいきなり中立的なことを
するのが、わたしにとって喜び?

様々な人生で
ダークサイドをやり尽くしてきたわたし。

アトランティスの時などは
その強大なパワーによって
すべてを焼き尽くした。

そんなわたしにとって
今世というのは
例えるなら、ダースベイダーの最後のワンシーン。

全人生通してみると
最後のワンシーンが、今世のようなものなのに
同時創造ということに気づいたら
急に中立になるのが、わたしらしいのか。

レミゼラブルでいったら
ジャンバルジャンが
ようやく善行を行おうと決心したあたりで
同時創造性に気づいて、中立的に生きることに
するようなもの。

本当にそれが、わたしの喜び?

と問いかけたわけです。

答えはね、決まっていた。

光ってやつも、一度くらい、やってみたかった。

今世でいくら光ったって追いつかないくらいの
闇を体験してきているわたしは
どんなに頑張っても、光と闇のバランスが
中立になることはないだろう。

そして、それすら、する必要のないことに
気づいていったのです。

なぜなら、ワンネス的目線でいったら
闇だけをやっていたとしても
今度は外側に光を生み出しているから
闇は闇役をやっているだけで中立なのだと。

過去生と今世のわたしの罪は消え去った。
闇として生きるだけで、すべてが許されていたから。

そして、ライトワーカーとして
生きることを決めてから
己の莫大な闇の経験を
闇を闇として丸ごと愛であると享受してきた。

時に吐きそうになりながら
闇を闇のまま、愛であるとして享受してきた。

闇を光に転じようとする意識だけでは
ライトワーカーは続けられない。

闇を闇のままごと。
苦しみを苦しみのままごと。
絶望を絶望のままごと。

抱きかかえて
すべては愛であると受けとめていくんだ。

己の全人生の闇を享受した時。
今世、光である自分を体現することを恐れなくなる。

だから、光である自分を恐れずに
中立というところに甘んじずに
発揮できるかどうかというのは
己の闇をどれだけ丸ごと
享受できるかどうかにかかっている。

そうして、自らの闇を。
自らの絶望を。苦しみを。罪を。
一つ一つ、丸ごと抱きかかえていった先に
特性的に、最も強く体現できるようになったのは

希望と許し(絶望と罪)

つまり、わたしは絶望であり罪そのものである。
そして、希望であり許しと慈悲そのものである。

わたしは自分が行ってきた
数々の悪行を許しきっているので
他の誰かに罪を感じるのが皆無。

目の前に来られた方は
私が、ここに存在しているだけで
何だか許されていってしまう。

わたしは、数々の絶望を体験しているので
どんな闇にも光を感じて見つけることができる。
そうすると、他者は自分に光を見出す。

闇を極め、闇を享受したからこそ
慈悲そのものに成れる。

絶望と暗闇を享受したからこそ
希望そのものに成れる。

ライトワーカーよ。
恐れることはありません。

闇を世界に生み出すことの
恐れからの出し惜しみはいらない。

同時創造を丸ごと抱きかかえ
闇を丸ごと享受し
己の立ち位置と役割を受けとめ
己の喜びを貫き、光り輝け。

今こそ、光である自分を
全力で発揮する時なのだから。