《本日のフリーダムメッセージ》

回想記    3  【天職を求めて】

 

どうして、このお仕事をしているのか。
どんな人生を送ってきたのか。

北海道の実家滞在中
期間限定で回想記を綴っています。

生まれてから、少女時代まではこちら
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生きようとしながらも
自分を傷つけたい
願望が消えなかったわたしは

世間一般で言う
『してはいけないこと』
を一通り行って荒んだ
学生生活を送ります。

たちが悪いことに
解りやすく不良少女のような
出で立ちや仲間とつるんでいれば
解りやすかったのですが

普通にしか見えない上に
隠したり、嘘をつくのが

上手かったので行いは
誰にも見つかることはありませんでした。手をつけなかったのは
麻薬や覚醒剤の類と
人を傷つけること。それ以外のことは
大抵、全部行いました。

万引きなどは、当時
かなりの数行いましたが
いつも完全犯罪のため
結局一度も見つかったことはありません。

わたしのように
見つからないタイプの人間は
自分で始めたなら
自分で辞めなければなりません。

他者に見つからなくても

自分は自分を
ずっと見ています。

リストカットまがいであったり
身を売るまがいのことをして

自分を傷つけることでしか
生きている感じを
味わえない気がしていましたが
全て、自力で決意して
辞めていきました。

人生の転機は
18歳の時に進学で
東京に出ることになったことです。

東京に出るのは
両親から大反対され
親不孝ものだと言われましたし
病気の母を置いていくことに
罪悪感がないわけではありませんでしたが

それでも、何を言われても
自分の自由を選びました。

共倒れになることより
他の人を置いてでも
自分が先に幸せになることを
選べない人は多いですが

とても決心は固く
晴れて上京することになりました。

上京して、自由を得て
友人や彼氏などと交流をすることで
本来の自分を少しづつ取り戻して
いきました。

ただ、ここで新たな問題が発生しました。

当初、音大に入りたかったけれど
金銭的に音大が難しくなったため
東京に出ることだけを
考えて入った学校だったので
学校が物凄くつまらなかったのです。

自分の興味が全くない
栄養士の学校で
一年留年しながら
なんとか卒業しました。

昔から、つまらないことを継続することが
できない人間だったので
次第に社会に打ちのめされていきます。

就職活動をして
そこそこの会社の営業事務
いわゆる、OLになるも
三ヶ月で退社。

当時、存在していた
セクハラに激怒して
あっさり辞めてしまいました。

社員として唯一勤めた会社を辞めた後は
アルバイトで職を転々としました。

喫茶店
レンタルビデオ屋さん
テニススクールの受付
レストラン
夜間のコンビニ

など、職を転々とし続けました。

世間一般には、職を転々とする
ということは良くないことと
されていましたから
仕事を継続できないわたしは
自分は仕事ができない
ダメ人間なんだ。という
負い目がありました。

そんな中で、唯一
肌に合っている仕事がありました。

それは、喫茶のカウンター業で
のんびりしているところで
カウンターにお客さんが来られて
お話をするのです。

お話をすることで
ほっこり癒されていく
お客さんを眺めながら
いつか、お話をするだけの
お仕事ができたらいいなと
淡い期待を抱いていました。

お話をすることは
とても自然で

わたしらしく在れることでした。

お仕事のことでは
相変わらず、悩んでいましたが
それ以外においては
どんどん幸せになっていき

心理学やスピリチュアルを学び始め
自分に起こっていたことや
母に起こっていたこと
生きる意味や人生の意味を
問いました。

そして、もう一つの転機が訪れます。
結婚と出産です。

出産を機に
唯一肌に合っていた
喫茶のカウンター業を
辞めることになりました。

自分がしたような
体験はさせたくないと
自分が陥りやすいようなパターンを
心理学などで学び
息子に繋げないように心がけていました。

そうして、家族との触れ合いや
育児に専念していたので
外で働くということは
頭にありませんでした。

外に働くことはできなくても
家で仕事をしよう。

天職を求めていたわたしは
インターネットが
普及したてだった当時
海外からベビーカーを輸入し
自分でネットショップを
立ち上げるという
チャレンジをしました。

これは、大変上手くいき
事業は成功しました。
このお仕事は
とても楽しくやり甲斐があり
夢中になって
寝る間も惜しんで
お仕事をしました。

幸せな家庭を得て

育児をしながら
お仕事に関しても
ようやく、水を得た魚のように
自分の力を発揮できた気がしました。これまで、仕事を何をやっても
上手くいかなかったのは
わたしは、雇われることや
決まった作業をするのが
とても苦手だっただけで
自由に好き勝手に
創造的に仕事を生み出すのは
とても得意だったのだということが
わかったからです。海外のベビーカー輸入事業は
とても上手くいきましたが
唯一面白くない側面がありました。

せっかく、素敵な商品を
バイヤー目線で選び抜いて
日本にいれても、直ぐに
他のバイヤーに真似されてしまうのです。

たった一つの
自分しか輸入していない商品
というところに
妙味を感じていたので

段々、仕事がつまらなくなってきました。

金銭的には、このお仕事は
とても儲かっていたので
続けるのが一般的かもしれないのですが

つまらないことが

続けられないわたしは
オリジナルブランドを
立ち上げようと
思い始めます。つづきは、明日。