《本日のフリーダムメッセージ 覚醒は型にはまらない》

 

以前、こんなご相談がありました。

 

『Ayaさん、凄く覚醒した人というのは、どんどん

のんびりして、何もしなくなっていくはずなのに

自分はそうならないんです。』

 

みなさん、この問いについて、どう思いますか?

 

実は、内容は違えど、こういう質問は

時々あるご相談です。

 

こういったケースは

こういう風になるのが覚醒である

という形にはめてしまったから起こります。

 

覚醒というものを形にはめないこと。

 

これは、とても重要です。

 

覚醒というのは、人それぞれ異なるものなのです。

どんどんその人らしくなっていくことなのです。

覚醒している人の共通点もありますが

共通ではないことも多々あります。

 

どんどん、のんびりになっていく人。

どんどん、忙しくなっていく人。

 

これは、どちらも起こりうることです。

 

今まで忙しくしすぎていた人は

もう少しのんびりが自分らしいと

思うかもしれないし

 

今までのんびりしすぎていた人は

もう少し充実していた方が自分らしいと

思うかもしれないし

 

どちらも起こります。

 

気合が入りすぎて力んでいた人は

もっと緩んでいくということが

起こっていきますし

 

緩み過ぎて、何もしていなかった人は

もっと気合を入れて、本気で何かに

取り組んでみるということが

起こってきたりします。

 

だから、人と同じことをしたり

合わせたりしても

どうにもならないのです。

 

また、人と全く逆のことをしたり

全く合わせなかったりする行為。

これも、人の影響を受けている行為ですので

合わせていることと、何も変わりません。

 

こうした、どちらにもなりうる

覚醒の指針のどちらかを

それだけが正しいとなってしまい

そういう行動をしていない人に対して

そういう行動をしている自分が優越感を

感じていたりすることがあります。

 

優越感や劣等感にいるときは

覚醒からは遠のいていますので

どういう感情がそこに生まれているか

意識がけることです。

 

結局のところ、正しい、正しくない

といったような、正誤の意識というのは

劣等感から生まれているのです。

 

特別を持たざる劣等感。

 

ほら、私だけが正しかったのよ。

という幻想は決して得ることはできませんが

自分という存在が存在しているだけで

既に特別であるということを感じられずに

特別の代償に正しさを求めてしまうのです。

 

正しさを得て、勝っている優位性を手に入れたいのです。

しかし、何か一つだけが、優れているということは

宇宙の根本的な定義から外れていますので

必ず、打ち砕かれます。

 

人間は、宗教にしても、国にしても

飽きもせずに、未だ、自分だけが勝っている

という幻想を追い求めているのです。

 

実は、特別は、個性を磨けば磨くほど

得ることができます。

 

誰かと戦ったり、争ったり

競ったりしなくても得られます。

 

人は争っている時

意識は、対象にフォーカスしており

ポイントとポイントの視点

1点と1点を結んだ対角線上を見ています。

 

正しさから脱却するには

ポイントでみるのをやめて

『世界にとって、自分という人間は

どんな人間だろう』

というのを見ることです。

 

世界にとっての価値。

何か特別に秀でているならば

何か特別に劣っているでしょう。

 

そうしたことを見ていった時に

争ったり競ったりすることが

いかに無駄で労力の無駄なのか

ということがわかります。

 

覚醒を型にはめずに

世界にとっての自分という個性を生きだした時

正しさは必要なくなり、争いは消えます。

 

自分を知れば知るほどに

奥深さに圧倒され

既に特別であったのだと

いうことがわかるのです。