《本日のフリーダムメッセージ 人間という制限の中で》

 

制限がもし、本当に無かったら。

答えは簡単なのかもしれない。

 

ひたすらに、愛し合いたい人と

愛し合うということを無限に

ずっと行い続けるということを行える。

 

でも、わたしたちは、敢えて

人間という制限のある存在を選びました。

 

すべてをやり尽くしたいけれど、身体があり

すべてを叶えてあげたいけれど、叶えられない。

 

そんな、人間的制限の中での愛というものを

常に常に、感じていっているのだと思います。

 

『もっと、あんな風にしてあげたかったのにできなかった』

『もっと、こうしてあげればよかった』

 

家族に対して。

子供に対して。

パートナーに対して。

 

。。。自分に対して。

 

そうした悩みは、すべて、人間だから起こったもの。

もっと、大切にしてあげたいものが

もっと、大事にしたいものが

もっと、愛したい人が

 

わたしたちには、この一つの身体では

足りないと感じるくらいに存在している。

 

こうした、後悔や自責も。

すべて元を辿れば

 

もっと、愛したかった。

 

と叫んでいる。

その時々の、最善を尽くして愛していても

もっとやれることは、あったんじゃないかって

思ってしまうくらいに、愛し足りないんだ。

 

それは、わたしたちの愛が無限だから。

もう十分と思える時は、ずっと来ないのかもしれません。

 

幾度も幾度も生まれ変わり

色々苦しんだり、悲しんだりしながらも

愛したいという思いは変わらず

果てしなく続いていく。

 

愛が、わたしたちを生かしているのです。

 

『もっと、あんな風にしてあげたかったのにできなかった』

『もっと、こうしてあげればよかった』

 

という思いが湧いている時は

あなたが、もっと愛したかったということを

感じている時なのです。

 

そうだね。

もっと、愛したかったね。

もっと、無制限に愛せる方が、本来の自分だからね。

 

それでいて、制限のある人間という存在においては

十分に、最善を尽くしたんじゃないかな。と思うのです。

 

最善っていうのは、満足できる範囲よりも

下に思えることだって、沢山あります。

 

最善というのは、無限ではなく制限があるから

初めて生まれる言葉。

 

最善を尽くすというのは

人間という存在であることを

そのまま受け止めて、人間という制限の中で

できる限りのことをやるということだと思うのです。

 

あの時、もっと、こうしてあげられたら。

そんな思いは、誰しもが抱いたことはある思い。

 

そんな思いを抱いてしまう相手のことを

とてもとても、愛していたから、生まれる思い。

 

愛していたんだ。ということを、そのまま抱きしめて

もっと、愛したかったという思いを、そのまま抱きしめて

愛であることは辞められない自分を、そのまま抱きとめて

 

人間という制限の中での愛という現れを

大切に、味わいながら、生きるのです。