《本日のフリーダムメッセージ 愛し合う関係と、犠牲と依存の関係の違い》 

 

両親との関係性が修復されて

カルマが減ってくると興味が無くなってくるもの。

その代表例に、犠牲と依存が挙げられます。

 

 

犠牲と依存の関係は

共依存的とも言えるものですが

どうしてこうなるのか。

 

 

それは、犠牲と依存を

セットで考えなくては

解明できません。

 

 

犠牲に立つ人は

罪悪感が強く

献身を通り越して

自分の身を投げ出すことを

愛だと思い込んでいます。

 

 

犠牲ということに

すごく惹かれるのは

自分の身を投げ出すほどの

すべてを失ってでも尽くして愛するのが愛だと

勘違いしてしまっているのです。

 

 

カルマがある人は

この犠牲的な愛にすごく惹かれます。

 

 

物凄く犠牲に、抗えないほどの

魅力によって、引きつけられるのです。

 

 

そうして、犠牲を好んで行う人というのは

実は、奥底では、依存を望んでいます。

 

 

これは、かなり衝撃的な事実に感じる方も

いらっしゃるかもしれませんが

犠牲的な愛を行ってしまう人というのは

隠れ肥満ならぬ、隠れ依存体質なのです。

 

 

犠牲に立つ人は、隠れ依存体質なだけで

本当は依存したくて

依存したくてたまりません。

 

 

でも、その機会が自分に訪れないので

犠牲を行うことで、最終的な見返りとしての

依存を心の何処かで、期待しているのです。

 

 

ああ、何てこと。

献身を通り越した犠牲というのは

依存という見返りを欲している

自分に向けた愛だったなんて。

 

 

愛し、愛される関係性を構築できる人は

依存も犠牲も行いません。

 

 

依存的な愛や犠牲的な愛に

惹かれたり、高揚感を覚えたりもしません。

 

 

カルマが発動している時というのは

依存的な愛に、抗えないほどの

魅力によって、引きつけられるものです。

 

 

ですから、爽やかに愛し合うことに

興味を抱けませんから

同じような相手と引き付け合います。

 

 

しかし、そこで繰り広げられるのは

犠牲か依存であり、愛し合うという行為からは

逸脱してしまっており、両者が結局は

『自分が得たい』というところに辿り着くため

いつまでたっても、幸せな気持ちにはなりません。

 

 

何しろ、依存は底なし沼。

何時までたっても愛されたということを

得ることは出来ないのです。

 

 

自分と世界における

犠牲と依存の関係性を終わらせ

共にありながら、愛し、愛される関係性に

移行していけば、人間関係のすべてが変わります。

 

 

愛とは、所有ではありません。

束縛できるものではないし

相手の時間や自由も奪うものではありません。

 

 

犠牲と依存の世界と、愛し愛される世界。

両者は、まるで、別世界、別次元。

同じ世界に住めません。

 

 

犠牲と依存の世界を終わらせていきましょう。

それに関わる濃いカルマを終わらせていきましょう。

 

 

終わらせたその先には新しい世界。

愛し、愛される世界が待っています。