<どんな時に人は愛と感じるか>

 

最近、凄く感じるのは、分離がある人と

分離が無い人の愛の度合いの違いです。

 

分離がある人は、人の話を分離感で聞くから

距離があって、他人事として聞いてしまう。

だから、とても遠い感じがするんです。

 

分離が無い人と話をすると、どんなに厳しいことや

突き放したようなことを言っていたとしても

<自分ごと>として全部話しているから

距離が無いし、愛を感じるんです。

 

だから、究極的に言うと

分離感がある、無いによって

全く同じアドバイスをしたとしても

全く違う意味になってくるし

分離感があればあるほど

冷たいと感じます。

 

全てが自分自身の一部

として世界と関わっていればいるほど

(完全覚醒者の場合は、自分がいなくて、全てがわたしだから究極です)

受け取り側は、愛と感じます。

 

次が寄り添い、共感。

分離がまだ強い人であったとしても

寄り添って、自分ごととして聞くことで

その人なりに愛してくれていると感じます。

 

残念なのは、分離で人と関わった上に

寄り添う気持ちもなく、自分の意見を押し付けてくるケース。

これは、切り捨てられたような、冷たさと痛さを感じます。

 

昔の指導者が、どんな相談事も、本当に癒される

経験になるのは、ごく一部のケースです。と言っていたけれど

つくづく、本当に最近、そのことを感じます。

 

以前よりも、より愛か愛じゃないかが鮮明に分かるように

なってきてしまっているからこそ

私自身が相談する時には、愛のある、つまりは分離感が全くないか

分離感があったとしても心から私を愛してくれている人を

選ばなくてはならないんだとしみじみ思いました。

 

自分を愛してくれているかどうかの判断は、とても簡単です。

困っていることを相手に投げかけてみた反応で、その人の

現在の分離感具合とか、愛がどの程度かどうかが全部出ます。

 

フェア、アンフェアというところについても考えさせられます。

自分が愛しているようには、愛されない。

完全覚醒者だと、ほぼ、全ての人に対して

奉仕の愛であり、自分が同じように愛されることはない。

それでもその道を選ぶのかという問いかけです。

 

癒されていない時に、フェア、アンフェアを気にする

段階、フェーズはあると思うのですが

完全覚醒ともなってくると、そういう次元ではなくなって

くるわけで。。。。

 

相手とは釣り合わないんです。釣り合わない。

一方的に圧倒的な愛であることを選ぶ。

そういう生き方ですね。

 

この人にもあの人にもお話を聞いてもらって

癒される経験ができるということは

残念ながら、無いということ。

 

愛がすべての基準だから

この人に相談をしてもいつもストレスを感じる。

逆にあの人に相談すればいつも愛を感じる。

ということになるのでしょうね。

 

今の私に必要なのは、数年前とは

もう感覚が違ってきている自分を

よりもっと認めていかなくちゃならないのかもしれません。

 

以前出来たことでも、今は出来なくなることもあるということを

受け止めていかなくてはならないんです。

 

出来なくなりつつ、よりできるようになったこともある。

それらは、いつも交錯しています。

 

どんな時に人は愛を感じるか。

それは、分離感が無い状態なのです。