< フェアの落とし穴>

 

人間関係において、フェアであることは大切です。と

指導することがあります。

 

どうして、フェアであることをお勧めするかというと

人間関係において、<責任が取れてない>んです。

 

自分の方がこうだった。相手はこうしてくれなかった。

自分の方が一方的に与えてしまった。相手からはもらえなかった。

 

人間関係で、他者との関係性を築いていく際に

重要になってくるのは、<責任が取れていること>なんです。

 

だから、責任が取れない人たちに対して、つい自分の方が

頑張ってしまう人に対して<フェアであることは大切です>

と言うようにしてきました。

 

なぜ、フェアであることが大事か というと

前述したように、<フェアである関係性を築けると、責任が取れるようになってくる>からです。

 

ところが、フェアかフェアじゃないかというところに

あまりにも焦点が行き過ぎるのも考えものです。

 

何でもそうなのですが、やり過ぎは良くありません。

意識過剰になってしまって度がすぎると、

過ぎたるものは及ばざるがごとしとなってしまいます。

 

フェアの落とし穴。それは、フェアであるかどうかを

常に監視するようになってしまうところではないでしょうか。

 

フェアかフェアじゃないかは、そもそも、その人がどう思うか

というその人の視点に任せられています。

 

その人の視点が狭かったり、歪んでいたりすると

フェアかフェアじゃないかも危うい。

 

だから、自分が感じているフェアさは、自分の真実ではあるけれど

正しさではないよということなんですね。

 

もっと言うと、フェアさを重要視していた理由は

<責任が取れること>だから

 

責任が取れてさえいればいいんです。

 

全然フェアじゃない関係性だったとしても

責任が取れていればいい。

 

自分が愛することの関係性が多かったとしても

そこに責任が取れていればいいんです。

 

<現時点で、フェアじゃなかったとしても

未来含めて、どうなってくるかわからない>から

責任さえ取れていれば、あまり気にしなくていいんです。

 

パートナーシップにおいて、家族関係において

あまりにもフェアさを強いる関係性は

不満が多いなとも思います。

 

不満が多くなってしまった場合には、逆にフェアさに囚われすぎて

いないかどうか、見直してみるといいです。

 

大事なのは、責任が取れていること。

愛するということ。

 

全然フェアな関係性を築けない人は、先ずはフェアな

関係性を築いていくことが大事です。

 

フェアさを知るというか、こういうのがフェアなんだな。

私は責任が取れる関係性なんだなと知る。

 

そこから先は、広大な海のように、人間関係というのは自由。

愛のもとに。

 

フェアなんて全然求めない愛だってある。

奉仕の愛で生きることだってある。

 

正しい不正解が存在するんじゃなく

限りなく人の数だけの正解が存在するんだと思います。

 

全然期待していない関係性に、急に進展がある場合だってある。

そこには、見返りが存在せずに、ただ、相手の幸せだけを

望めたから、そうなれたような気がするんです。

 

フェアという段階が終わった人は、ぜひ試してみてください。

ただ、愛していてその人の幸せを望むだけでいいという段階に入っていけたら、もっともっと世界は愛に満ちていくのだと思います。