《本日のフリーダムメッセージ》

~ 自分を取り戻す 〜

 

自分とは何者で
自分は一体何をしたいのか。

そういったことが解るのは
自分である状態の時。

自分ではない状態の時には
先ずは、自分を取り戻すということを
していかなくてはなりません。

自分を取り戻す。
奪還です。

取り戻していく対象は
色々なものがあります。

対象は例えば
権威がある人であったり
霊障であったり
薬であったり(一般の薬もそうです)

何かに自分を明け渡してしまうのです。

どうして、明け渡してしまうのでしょうか。

例えば、わたしの母は
精神障害ということでしたが
本当のところは、霊障でした。
そして、薬も大量に飲んでいました。

ダブルで明け渡して
しまっている状態だったといえるでしょう。

母は、良く言っていました。
『病気の せいだから』
『薬の せいだから』
『〜が、こう言ったから』
『〜が、こうした方がいいと言ったから』

何でも、何時でも都合の良い時に
他のもののせいに出来るのです。

つまり、母は自分で責任をとることを
極端に恐れていました。

少しでも、本人にも要因がある
ということを話すと、逆上し
『どうして、わたしを責めるの』
となるのです。

当時は、とても大変でした。
常に父と私のどちらかが
加害者の立場に立たされるからです。

大人になって
幾種類ものヒーリングを毎日かけて
霊障を根気強く
幾度も外しながら
薬を少しづつ辞めていきながら
母は少しづつ自分を取り戻していきました。

霊障をつけなくなっても
責められることを極端に恐れていましたが
地道に罪悪感を解放したり
家系カルマを解放したり
愛を送り続け、癒し続けました。

その結果、自分で自分に
責任がとれるようになってきました。

お仕事でも
初回のセッションでは大量に霊障を
つけて来られる方もいらっしゃいます。

そういった場合、単に霊障を外すだけでは
また、つけてしまいます。

自分を奪還していくようなサポートを
していかなくてはならないのです。

このように、自分を何か別のものに明け渡して
しまう時に、共通することがあります。

☆自分を責めやすい
☆自分で責任をとるのが苦手

つまり、最初から自分は悪いと思っていたり
自分を責めているマイナススタートなのです。

それは、今世で増幅した場合も
あるかもしれませんが
程度が酷い場合は
過去生の罪と罰の意識によります。

ですから、こういう人に
単に、自分でも責任とってよ! とか
人のせいばかりにして!と思って
そうなってもらおうとしても
上手くいきません。

なぜなら、今世で生まれてきた段階で
既に自分を責めている状態なのですから
これ以上責められたくないですし
これ以上責任をとりたくないのです。
これ以上重荷を増やしたくないのです。

罪と罰。
深い部分の罪悪感とそれに関わる
封印やカルマの解放によって
その人の罪意識を軽くしていった時

自分のせいと責めなくなってくるので
責任と責めるの区別がつくようになってきて
責任がとれるようになってきます。

ところが、この罪悪感の解放が
簡単ではなかったのです。

他のところでヒーリングやセッション等を
受けられてきて
その後、わたしのところに来られた方で
罪悪感ということが課題なのに
全くそこに触れられていないのです。

一体、今まで、そのサポートしてきた人は
何をやってきたんだろう。
と不思議に思ってしまうくらい
全くそこに触れられていないのです。

段々、解って来たことは
わたしは、今世に限らず
アトランティスや中世など幾世も
大規模に渡る、深い闇の経験を沢山しており
罪と罰ということ自体が
わたしのテーマでもあるから
そこに手が容易に届いて、触れられるのではないか。
ということです。

怒りや哀しみといったレイアーには
手が届いて解放出来たとしても
罪悪感まで手が届かない場合があるのではないか。
ということなのです。

罪悪感の感情は
海溝の底の底の
底っ溜まりにあります。

深い深い、闇の奥にある
最も重いエネルギー。
それが、罪悪感です。

参考までに
感情を数値で現した文献があります。
これでみても、罪悪感は恐怖よりも下で
とても低い数値であることがわかります。
http://gorich777.blog18.fc2.com/blog-entry-250.html

どうして、自分の闇はこんなに深いのだろうと
自分の生い立ちや、自分を受け容れきれなかった時もありました。
きらびやかな、純粋な光を追い求めるようにして。

でも、どうしても、それが、わたしで。
わたしはわたしを受けとめていくしかなかった。

闇の深さを消すことは出来なかったし
隠してみても、隠しきることも出来なかった。

受け容れるしかなかった
自分を受け容れていって
今のわたしがあります。

愛には様々な表現があります。
今は、その自分という愛を
ただただ、愛おしく感じます。

高い山の頂を指し示すのも愛であるのと同時に
深い真っ暗な海溝の奥底に
一筋の光をもたらすのも、また、愛であるのだと。