< 調和的解決をしていく>
あの人がこうしてくれる。
この人がこの願いを叶えてくれる。
そうした特定の人への期待を手放していきましょう。
自分がイメージする世界ってあると思うんですね。
そうした時に、誰か特定の人ではなく
『世界が叶えてくれる』と望むんです。
そうすると、コントロールもしなくて済むし
特定の人への期待をすることも無くなります。
もちろん、この人とこれを体験したいということも
あるかもしれないけれど、すべてのことが
その人と行われることじゃないかもしれない。
人それぞれ、どんな暮らしをして、どんな風にお出かけをして
どんな風な生活をしたいか、異なる要素があるから
その異なる要素を無理に合わせることを
しなくていいということです。
これは、選択肢の話にもなってくるんですよ。
例えば、夫婦がいたとして、家事をどちらが
どれだけするかで揉めている。
これは、前述したように、明らかに調和的じゃないんです。
得的の人への期待をすることになるし
相手へのコントロールも行われる行為です。
ここに、第三者を入れてみる。
家事のやりたくない部分は、業者にやってもらう。
この発想が湧くだけでも、大きく人生は異なります。
この人はこういう部分が得意だけれど、こういう部分は
得意じゃない。
誰しもが、何もかもできるスペシャリストじゃなくて
できない部分を抱えているって思うんですよね。
ですから、苦手だったり、やりたくなかったり
出来ないのに無理やりやるという選択肢を
辞めてみて、他の人がそれをすればいい。
調和的に、物事が解決する時って、<やりたいことを
お互いにやれている>時なんじゃないでしょうか。
一緒にいたい時に一緒にいる。
時には一緒にいたくない時もあって
その場合、お互いにどう過ごしていくかは
そこから考えていく。
調和的に、望むことができて
<世界が、なんとかしてくれる> と思ってると
相手を束縛したり、コントロールしなくなるんです。
そうすると、カルマの無い関係性が生まれて
ちょうど良い関係が続いていきます。
今のちょうど良い関係。
それが紡がれてくるんです。
わたしの周りは、今、それが更新、一新されてきている感じ。
今までと同じだけど、同じじゃない関係性。
新たに発展してきている関係性。
新しく紡がれてきている関係性が生まれてきています。
望みは妥協しなくていい。
<世界が、叶えてくれる>
<世界が、なんとかしてくれる>
そうすると、制限がない形で、望みを叶えることになるから
必然的に望みが叶うことになってしまうんです。
どんな変化も、調和的解決をしていけると知っているなら
わたしたちは、期待とコントロールを手放して
もっと自由に生きていけると思うのです。